P2 第3話 「何で伝統工芸バッグなの?」の巻

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私がバッグデザイナーとして勤務し終え、日本に帰国したとき感じた事。「何でこんなにモノであふれているの?東京?!」まさにコレ一言に尽きました。どこのブランドに転職しようかと、数年離れた東京のファッション業界を確かめるべく新宿、渋谷、銀座、池袋と百貨店や駅ビル商業施設を数日かけて歩いた感想です。まだ11月でバーゲン時期でもありませんでしたが、どの店にもプロパーと一緒にセール品が並び、それは商品の洪水のような景色。需要をはるかに超えた供給がなされているのは誰が見ても明らかでした。もちろんアパレルメーカーはモノを作って売ってナンボ。在庫が沢山あるからと言って「じゃ、今月は何も生産しなくていいよね」という事にはなりません。そこには巨大な負のスパイラルがありました。

またその頃、「日本の『バッグ生産現場』も見てみたい」と、私はお知り合いの方に頼んで鞄職人のご一家をご紹介いただき尋ねました。東京の下町、埼玉の草加周辺には沢山の鞄職人さんがいらっしゃいますが、その中のお一家族です。初老のお父様・お母様、ご子息の3人で丁寧に1つ1つ作業をこなしていらっしゃいました。腕の良い職人さんのご一家です。OIOIやルミネに並ぶ上代2~3万円位のバッグをつくっておられました。「1つ作って幾らになるのですか?」私が失礼承知で伺うと答えは・・・「時給にしたら¥200~300だね。今はどこのメーカーも中国に発注してしまうから、中国で生産した場合のコストと同じで作れと言われる。出来ないと言えばこちらに発注してもらえず仕事が無くなる。この金額でもやらざるを得ない。」と悲しそうな顔をされました。

この転職を模索した期間。私はモンモンとするばかりだったのを覚えています。商品にあふれる都心の商業施設。そこに群がる高校生、大学生や若い社会人。彼らのご機嫌を伺いながら大量にモノを供給するメーカー。その裏で虐げられる優良な生産者。当時私の目にはそのように映り、自分もこの1歯車になるしかないのかと悩みました。もしくは、その前年にパリの見本市出品審査に合格していたのですから、この輪に加わらず自分のブランドを始める道もあったのかもしれません。しかしモノにあふれた東京では、「更に供給する人」となる道はイメージできませんでした。ピノキオのお話しに、悪い子供たちが学校へ行かず、家にも帰らず遊び続ける遊園地がありますよね。あの中に迷い込んで出てこれなくなった気分でした。

これに加え、更なるショックも味わいます。私は子供の頃から職人さんが大好きだったのですが、彼らの仕事は、発展途上国に生産を移す流れにより失われていた訳です。ベトナムで自分が受注していた仕事は、まさに日本の職人さんから移ってきたものだったのです。尊敬する日本の職人さんを間接的とは言え苦しめていたと気付いた時、頭が真っ白になりました。もちろん27才の雇われデザイナーには何の責任もありませんが、素直な私は「何という事をしていたんだ」と心底悔んだのです。

色々な出来事が重なり、自分がデザイナーをする意味が分からなくなった私は、一旦その業界から身を引く決心をしました。小学生の頃から全力で追い求めてきた「夢」に挫折したのでした。


― 来週へ続く ―
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by yoko-room | 2011-02-02 11:07 | 伝統工芸バッグプロジェクト
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